引き寄せの法則って?→①はこちら
5歳のわが子に「ママは小学校好きだった?」としょっちゅう聞かれる。
そのたびに私は、「ママは小学校、好きじゃなかったよ」と答えている。
「中学校は?」「中学校はもっと好きじゃなかった」
「高校は?」「高校も別に好きではなかったけど、〇〇ちゃんや〇〇ちゃん(子どもも知っている私の友達)と会えたから、行ってよかったかな」
そして最後はいつもこうなる。
「ママは、大人の今が一番楽しい」
すると子どもは決まって、「ママだけ大人でずるい!」と本気で怒ってくる。
ちなみに夫はというと、「小学校大好き!中学校も楽しかった!高校はラクだったし、大人の今より学生時代のほうが断然楽しかった」らしい。
我が子は夫のように「学校楽しかった!」と思えるといいなーと願っている。
(でも私は「ママも楽しかったよ!」とおだてるようなウソはつかない)
……と言いつつ、私は、小学校から高校2年まで皆勤賞だった。
学校は好きじゃなかったのに、体は元気だった。笑
(幼稚園から始めたスイミングのおかげ)

私が学生時代を楽しめなかった理由は山ほどある。
・とにかく真面目で、怒られるのがすごくいやだった
たとえば、忘れ物や校則違反。
ルールを完全に無視している子や、そもそも破る気がない子は楽しそうに見えた。
私はその中間で、破り切れない自分がイヤだった。
ちなみに夫は逆で、「怒られているうちに慣れる」タイプ。子どもは完全に夫似。ナイス!
ただ、これに関しては芯の部分は変わっていないとつくづく感じる。
違うのは、自分でそれを認められるようになって、「そんな自分だけどどうするか」を考えられるようになったことと、身近に真逆なタイプの夫がいることで、「大したことない!」と思えるようになったこと。夫の存在はありがたい!
・人の目を気にしすぎて、一人で行動できなかった
友達と一緒じゃない=イケてない、という謎のルールに縛られていた。
親友が他の子と仲良くなっただけで焦ったり、落ち込んだり、イライラしてた。
→これは本当に学校生活をつまらなくさせる最大の原因だったと思う!
実際、これは小学校から最初の専門学校まで続いていた。
毎日のように「死にたい」と友達にメールを送っていた一人暮らし時代も、そもそもの原因は“人の目”だった。
悲しいことに、人の目を気にしてしまうというベースも、今も変わっていないことを認識している。
ただ、「嫌われたくなくて作った自分で仲良くなった友達なんて、必要なのか?」と本気で思えるようになった最近は(←遅い)、生きるのがだいぶ快適。
この考え方、おすすめです。
・「最高!」と思える先生に出会わなかった
・自転車通学
→雨の日、風が強い日、心からきらいだった。
・くだらないことにムキになっていた
→実はこれもまだ変わらない。
でもそれを自分でも認識していて気を付けている分、今のほうがまし!
こうして振り返ると、私はとにかく“学校がきらい”だった。
でも皆勤賞。笑
そして、ベースの精神は全て今も引き継いでいるという現実。
でも毎日の楽しさが全然違う。
これはやっぱりいつの間にか引き寄せの法則を使っていたからとしか思えない。

逆に、大人の今が楽しい理由はたくさんある。
・宿題がない
→私は仕事を家に持ち帰らないから、完全オフな時間が多い!
・好きなものを食べられる
→好き嫌いが多かった私は、給食がきらいだった。
(夫は給食が大好きだったらしく、我が子もその遺伝子を継承)
・何時に寝てもいい
・苦手な人と無理に仲良くしなくてもいい
・車移動できる
→寒くても暑くても快適。これ、本当に大人になってよかった上位に入る!笑
くだらない理由ばかりに見えるかもしれないけれど、私にとってはどれも重要。
大人って最高。
夫のように、「子どものころの方が楽しかった」という人が多いのもわかる。
私が「大人の今が一番楽しい」と思えるのは、上記の色々ももちろん、「仕事が好き」ということも大きく関係していると思う。
仕事がきらいだったら、働かなくてよかった子ども時代のほうが楽しいと思うのは自然なこと。
けれど私は、好きな仕事があって、大好きな家族がいて、有給も取れる今が好き。
今の自分をきらいになる理由がない。
ここで言いたいのは…
子どものころの私は、引き寄せの法則とはまったく無縁だったということ。
人生は果てしなく長く感じていたし、毎日が全然楽しくなかった。
高校卒業後、一人暮らしをしていた時期には、本気で毎日「死にたい」と思っていた。
当時の私は、長く続いた反抗期の末、「家族と離れたい、家を出たい」という理由で県外で一人暮らしを始めた。
でもすぐに、死にたくなって、しんどくて、実家に戻ってきた。
帰ってきた私は、家族のありがたみにようやく気づいた。
そしてシンプルに「家族が好きだ」と思えた。
そして。
振り返っている今、そこから流れが変わったんじゃないかと感じる。